LOGIN西園寺邸の奥、普段は静まり返っているはずの重厚な書斎から、低く抑えた声が漏れていた。
千尋は廊下を歩きながら、ふと足を止める。分厚い扉の向こう、質の良い木材と革張りの調度に囲まれたその部屋で、父と母が話しているらしい。
――何の話だろう。
距離があり、内容までは聞こえない。ただ、言葉の端々に張りつめた空気だけが伝わってくる。千尋は気づかれないよう足音を殺し、扉へと近づいた。西園寺家の書斎は、触れるだけで手に重みが伝わるほど、すべてが高級だった。取っ手に手を伸ばした、その瞬間。
「――だからこそ、万緒に継がせるべきなのよ」
目の前に広がる光景は、夜に嗜むために用意されたアフタヌーンティ――すなわちナイトハイティーだった。三段のティースタンドには、宝石のように小さなスイーツが整然と並び、別皿には軽くつまめるフィンガーフードが添えられている。甘さと塩気、どちらも計算し尽くされた配置で、眺めているだけでも心がほどけていく。「シェフがつまみを作ってたから、ついでにな」そう言ってウインクしながら、ひょい、と軽食を摘まみ、もう片方の手でワインをくるりと転がしたのは万緒だった。執事としてはやや砕けた仕草だが、ここでは咎める者はいない。千尋はその様子を横目に見て、わずかに肩をすくめる。万緒は、千尋が何かに悩んでいるとき、決まってこうして“二人で食べられるもの”を用意する。昼ならアフタヌーンティー、夜ならナイトハイティー。食べながら、飲みながら、無理に聞き出すことなく、自然と話ができる空気を作る。それが彼なりの気遣いだと、千尋はよく知っていた。「主人の前にするような格好じゃないわね」千尋がくすくすと笑いながら視線を向ける。ネクタイは緩められ、シャツのボタンも一つ外されている。いつもの完璧な執事姿からは少しだけ距離のある、肩の力を抜いた万緒の姿。「ここは公式の場じゃないからな」そう返す万緒の声は軽い。――やっと笑ったか。そう思ったことは、もちろん顔には出さない。けれど千尋の表情が先ほどよりも柔らいでいるのを見て、万緒は自然と話題を切り出した。「で、“後で説明する”ってやつの内容は?」苺のミルフィーユを丁寧に切り分け、ひと口ずつ味わっていた千尋は、ゆっくりと飲み込んでから口を開いた。「西園寺千尋を社交界デビューさせるための、紹介パーティがあるわ」少しだけ口を尖らせて言うその様子に、万緒は目を細める。社交界デビュー前――つまり、西園寺家を含むいわゆる“エリート層”から見れば、まだ一人前として扱われない段階。千尋自身も、それを「おこちゃま扱い」と感じているのだろう。
場所が変わり、千尋は自室のソファに身を沈めていた。一言で言えば、ここは高級ホテルのスイートルームのような部屋だ。だが学園とは一切関係がない。ここは西園寺家が所有する邸宅の一角に設けられた、千尋個人の部屋だった。防音も警備も万全で、外界から切り離されたこの空間だけが、彼女が素の自分でいられる場所でもある。天井は高く、落ち着いた色調の家具が配置され、無駄な装飾はない。けれど使われている素材はすべて一級品で、育ちの良さを否応なく物語っていた。今日は、いつも傍に控えている万緒を下がらせている。理由は告げなかったが、彼は何も聞かずに従った。そういう距離感が、今はありがたい。フルオープンの大きな窓の向こうには、夜の街が広がっている。宝石を散らしたような灯りが連なり、ガラスにはその光と共に千尋自身の姿が映っていた。――少し、曇った表情。自覚した千尋は、視線を逸らす。父の書斎で交わされていた会話。母の声で聞こえてきた、あの一言。「万緒に継がせるべき」そして、父から命じられた紹介パーティの準備。期待されていることは分かっている。同時に、試されているのだということも。胸の奥に小さな違和感を抱えたまま、千尋は静かに息を吐いた。「……はぁ」小さくため息をつき、ソファ脇のテーブルに置かれたハンドベルを手に取る。ちりん、ちりん。澄んだ音が自室に響く。ほどなくして、控えめなノックの音。「如何いたしましょうか」扉を開けて現れたのは万緒だった。いつも通り整った立ち姿に、穏やかな眼差し。千尋はすっと表情を切り替え、いつもの微笑みを浮かべる。「とびっきりのスイーツと、コーヒーをお願い」「……この時間か? 珍しいな」万緒が目を瞬かせる。「今日はいいのよ。後で説明するわ」ひらひらと手を振る千尋に、万緒は小さく苦笑した。「かしこ
父が先に紅茶へ口をつける。その所作はいつも通り落ち着いていて、長年この家を率いてきた重みが滲んでいた。少し遅れて母もカップを傾け、ひと口含むと小さく息をつく。「さすがね。今日のブレンド、とてもいいわ」ほとんど独り言のようなその声に、千尋は湯気の立つ紅茶を見つめたまま、まだ手を伸ばさない。父と母がカップを置くまで待つのが、この家で身についた癖だった。本来、ここへは自分から父の書斎を訪ねてきたはずだった。けれど結果的には呼び止められ、こうして向かい合って座っている。何を言われるのだろう。そう考えた瞬間、思考は自然と慎重になる。表情にも仕草にも出してはいけない。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥では鼓動がわずかに早まっていた。父に呼び出される時は、たいてい「役目」を与えられる時だ。それも西園寺家にとって、少なからず影響を及ぼすものばかり。幼い頃から、何度もそれを経験してきた。――今回も、きっとそう。そう考えて気持ちを落ち着かせた、その時だった。かちゃり、と小さな音を立てて、父がカップをソーサーに戻した。空気が一段階、張りつめる。「タイミングが被ってしまって申し訳ないが、ちょうどいい」父はゆっくりと視線を上げ、千尋と母を交互に見た。「いろはにも伝えるべきことだったからね」「……あら、私も?」母――いろはは、事前に知らされていなかったらしく、きょとんとした表情で父を見る。手にはまだカップを持ったままだ。「ああ。千尋と万緒は、卒業しただろう」「ええ。学園も無事卒業したわね」母は頷きながら、千尋へと優しいまなざしを向ける。その視線に、千尋は微笑み返した。だが脳裏には、先ほど耳にしてしまった言葉がよぎる。――だからこそ、万緒に継がせるべきなのよ。振り切るように、千尋は意識的に笑みを深めた。「本格的に社交界へ顔を出すことになる。その前に、初めにパーティを開いて紹介しようと思っている」父は、千尋と母のやり取りを穏やかに見ながら言
西園寺邸の奥、普段は静まり返っているはずの重厚な書斎から、低く抑えた声が漏れていた。千尋は廊下を歩きながら、ふと足を止める。分厚い扉の向こう、質の良い木材と革張りの調度に囲まれたその部屋で、父と母が話しているらしい。――何の話だろう。距離があり、内容までは聞こえない。ただ、言葉の端々に張りつめた空気だけが伝わってくる。千尋は気づかれないよう足音を殺し、扉へと近づいた。西園寺家の書斎は、触れるだけで手に重みが伝わるほど、すべてが高級だった。取っ手に手を伸ばした、その瞬間。「――だからこそ、万緒に継がせるべきなのよ」はっきりと、母の声が聞こえた。千尋の手が、ドアノブを回す直前で止まる。……え?胸の奥が、きゅっと締めつけられた。どうして、そんな話になるの?私は……跡取りとして、能力が足りない?お母様は、私を認めていない……?思考が一気に渦を巻く。父は何と言っているのか、続きは聞こえない。ただ、母のその一言だけが、耳の奥で何度も反響していた。ドアノ
学園の廊下を歩きながら、西園寺千尋はふと、これまでの日々を思い返していた。――卒業できないようにする、という露骨な妨害。今思えば、ずいぶんと回りくどく、そして執念深かった。学園長を中心に、一部の教授たちはあからさまではない形で、しかし確実に千尋たちの足を引っ張ってきた。提出期限の直前に追加される課題。評価基準の不透明な実技試験。説明のない減点。どれも単体では偶然と片づけられるが、積み重なれば悪意としか言いようがない。それでも、すべてが敵だったわけではない。少数ながら、善意を持った教師たちがいた。表立っては助けられなくとも、さりげなくヒントを残し、理不尽な判断を覆すための「抜け道」を示してくれた者たちだ。その糸を、千尋と宮藤万緒は見逃さなかった。繋がり、読み、対処し、やり過ごす。まるで、終わりの見えない実地訓練のような日々だった。「……改めて思い返すと、よく乗り切れましたね」廊下を並んで歩きながら、万緒が軽い口調で言った。「本当よ。嫌がらせのバリエーションだけは無駄に豊富だったわ」千尋は肩をすくめる。だが、その表情には余裕があった。「でも、いい練習にはなりましたね」「ええ。正面から来ない敵ほど厄介だって、身をもって学べたもの」それは、今後の人生においても役に立つ教訓だろう。千尋はそう思いながらも、ふと、ひとつの疑問が浮かぶ。「……でも、どうしてあそこまでしたのかしら」ぽつりと漏れた言葉。学園にとって、千尋が卒業しようとしまいと、実質的な不利益はないはずだった。むしろ、優秀な卒業生として名前を残すほうが名誉ですらある。万緒は、少し声を落として答える。「さあ……ですが」二人は並んだまま、視線だけを前に向けて歩く。「“自分の学園から、あの後継者を卒業させた”――それ自体が不名誉だと、思っているんじゃな
春の陽射しが降り注ぐ学園の中庭は、卒業式を終えたばかりの熱気に包まれていた。その中心で、西園寺千尋は堂々と立っている。つい先ほどまで答辞を読み上げていたとは思えないほど、彼女の表情は落ち着いていた。背筋は伸び、視線は前へ。生まれながらにして人の上に立つ者のそれだ。その少し後ろ、半歩下がった位置に宮藤万緒はいた。執事として、主人の影となるべき距離。「すばらしい答辞でした」万緒は軽く拍手をしながら言った。声量も、仕草も、すべてが控えめだ。だが、その言葉に嘘はなかった。主人として誇らしい――そんな感情は、胸の奥にきちんとしまっておく。「これくらい当然でしょ」千尋は小さな声でそう返し、わずかに口先を尖らせた。周囲に聞かせる気はない。だが万緒には、彼女が照れていることがよく分かる。その空気に、異物が割り込んできた。「以前の姿を思い出しますよ」拍手をしながら歩いてくる学園長。その姿には、かつて富豪層のリーダーとして名を馳せた頃の威圧感が色濃く残っていた。言葉は柔らかいが、声には明確な棘がある。万緒は一瞬で察する。――面倒だ。無意識に、喉の奥で小さな音が鳴った。「……チッ」ほんの微かな舌打ちだった。しかし、それを聞き逃すほど、千尋は鈍くない。「聞こえてるわよ」前を向いたまま、低く窘める。万緒は肩をすくめ、即座に表情を整えた。千尋は何事もなかったかのように学園長へ向き直り、完璧な笑顔を浮かべる。「学園ではとてもお世話になりましたわ。とても、ね」柔らかい声。しかし、その言葉の裏に込められた感情を、学園長も察したのだろう。彼の口元が、わずかに歪んだ。「“課題”をすべてこなせたのは君たちがはじめてだったよ。これからが楽しみだ」それだけ言い残し、学園長は背を向けて歩き去っていく。その背中を見送りながら